徳島県建具同好会
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 森林の宝庫・・中島建具

那賀川の上下流、木頭と中島那賀川下流域の建具産地、徳島県建具協同組合の前進は、その地名から中島建具と呼ばれていました。
中島は、那賀川下流に位置するかつての木材集散地です。
雨の多い那賀川上流の六万二千ヘクタールを占める地域は木頭林業地帯とよばれ、森林の宝庫として存在してきました。



 百年の伝統を守りながら・・・

百年の伝統を持つ中島建具 明治二〇年に中島原木商の一人であった角屋治平が建具、ふすまの製作を始め、続いて明治二五年に和歌山から井掘徳兵衛が来て雨戸の製造を始めたと伝えられています。

その際に同じ下流の古庄地区の業者から材料を買い入れ、京阪神、岡山、香川などと取引しました。こうして中島建具は明治四〇年代に一つのピークを迎えるようになります。

 阿波商人と木材(徳島県林業史まえがきより)

「阿波は、わが国商品経済の発祥地である。徳川末期から明治初期にかけての東京、大阪を中心とする阿波商人の活躍は近代史の黎明期にとりわけ異彩を放っている。なかでも木材は藍と並び阿波の特産物として、これらの商人たちの交易による到富の対象だった・・・」

「吉野川・那賀川・海部川という三つの河川は奥地の木材資源の幹線輸送路として大きな役割を果たした。吉野川河口の徳島および那賀川下流の古庄・中島は、すでに明治期から全国有数の木材市場として殷賑をほしいままにした。とりわけ中島・古庄の製材業者は、その装備の優秀さと資力の強大さを誇り、阪神をはじめ関西の諸都市への木材供給者として重きをなした・・・」

全盛期を迎えた戦後の雨戸生産 建具の歴史は、明治中期に木頭から供給されるもみ、つがを材料とした格子類の製造に端を発し、大正以降は杉を材料とする雨戸が主な生産物となり、戦後には雨戸の年産が三五万枚に達しました。雨戸づくりは戦後復興の住宅需要を支え、阪神はもとより鹿沼産地を控えた関東の市場にも食い込むほどの勢いでした。  

国内林業の破たんと復興の動き 昭和四〇年代になると、内地材は安い外材の価格競争に破れ、拡大造林政策が破たんし、国内林業は経営として成り立たなくなりました。 色が白いこと、木目に節がなく使いやすいことなどにより、ほとんどの建具に米松やスプルースなどの外材が使用されています。しかし一方で国産材の良さが見直されてきています。その土地の気候で生まれ育った木の性質が風土に適合するからです。  

皆さんの声に支えられて 環境、健康、快適志向の高まりにより、生活者の要望は多様化しています。生活をとりまく環境もインターネットなどの普及で変わりました。 こうした状況のなかで、私たちは、皆さんの声を伺いながら、木と紙の文化である建具の良さを再発見し、新しい時代の建具のある暮らしをご提案していきたいと考えています。をなした・・・」(徳島県林業史まえがきより)。

徳島県建具同好会
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